singalong!

日記と、観た舞台についての文章を書きます。ロンドンにいます。

【日記】2024年1月18日〜1月20日 いちばん退屈から遠いところ

1/18

チューリップの水を換える。朝ごはんをちゃんとお椀で食べるのを続けている。おいしい。

クラスに行く。スタジオの窓から見える空がばちーんと音がするような青で、ああ昨日とまったく違う天気、まったく違う日なんだと思う。動きながら感じられることが、森の中でただ木々のさざめく音や鳥の声を聞いているような、川の中をすいと泳いでいるような感覚と重なっていて、いま退屈からいちばん遠いところ、退屈のない世界にいるのではないかとはたと気づく。身体に帰ってこれるようになりたい、というのはこういうことかもしれないなあ。森の中にいるように、いま、からだにいる。からだでいる。ここにいれば退屈しない。退屈を避けようとして何かしようとする、のはすでに退屈なんじゃないか、とぼんやり思う。光の中を泳げ、という一言がふと浮かぶ。

友達とベーカリーのカフェに行き、その子の部屋におじゃまして、2時間くらい白湯(さゆ)を飲みながらひたすらしゃべった。空の色が変わるのを見ながら喋るのはなんだか世界に生きてるという感じで良い。ヴィーガンの中華料理屋で夕食、腹八分目まで大事においしく食べた。最近、ごはんをおいしく食べることを思い出しているような感じ。自分を大事にしていいんだよという暗示をかけている。

帰ってきてからありえないくらい眠く、歯磨きだけして即寝る。

 

1/19

今週のクラス再び。今日は何かを最後まで引きずってしまった気がする。何かをつかめていない、という感覚。つまり何かを掴みたいと思っているんだな。ただ流れる景色を見ている感じでいたいんだけど、ただ流れる景色は意外といつでも出会えるものではないのかもしれない。それにいつも出会えるようになりたいのかなあ。そういうのとも違う気がするけど。

あるもやもやについて考えていて、「相手に対して防御線を張ってくる」「相手を下に見ている」が合わさっている人がとても苦手だということに気づく。苦手、というかゾっとする、ゾワっとする。怖い。あと、たとえば人が2人いた時に、その2人同士が交流があることを知っていながら、そのうちのどちらかだけを優遇したり、どちらかについての悪口を片方に言う、というのも、怖い。そういう態度がさっきの2つと合わさってしまっている人だとわかると、その人とは本当に距離を取るしかない。

 

1/20

書かないといけないものを書かないといけない。しかしなかなか気が進まず作業も進まない。割り切って休日モードに入る。明日やろう!ふう!という時の若干の罪悪感とそれを補ってありあまる清々しさ。とはいえやりとりしている先生(日本にいる)とのメールは見ておいた方がいいかな…とさっき来ていたメールをこわごわ見たら、「狂言師に公演に招待されて、めったにない機会だから観に行ってきちゃったので論文のチェックできてない、明日チェックします」という内容だった。予想の斜め上。私でもその立場だったら狂言を観たいと思うと思います、という返信をした。私も今日はすっかりおやすみモードだったので、もともとそういうことになる予定だったんだな、と都合よく考える。

一時帰国以来、なんだか自分がふんわりと変わっている気がする。いつもじわじわと変わっているんだろうけど、なんだか変わり方が違う気がする… 一時帰国するまでは、私が何かそれまでとは別の人間になったような気がしていて、イギリスで得た経験を失わないように一生懸命ずっと抱きしめて生きようとしていた。ひとつも記憶がこぼれ落ちないように、もう前の自分に戻らないように。なのに帰ってきてからちょっとホームシックっぽくなって、何かを日本に置いてきた気がして、なんで取りに戻れないところにいるんだろうとか思って、そう思っていることが、イギリスで別の自分になったはずの自分を裏切っているような気がした。たぶん、それは裏切りと思う必要はなく、どちらにしろ起こる変化が起こっているということ。粘土か香りを両手で自分のところにかき集めて、ぺたぺた新しい椅子を作るように、または大きく息を吐いてから吸い込むように、自分をつくるものの一部をやわらかく作り直している。自分の基本的な形、素材、存在はそのままで、でももっとたましいに寄り添う形を手に入れられるように。もっと楽に呼吸ができるすみかのような生活を求めている。今は、自分で料理を作ることが心地いい。自分の部屋で何かを書いていること、本を一気読みすることに喜びを感じる。踊りたいけど、何かを成し遂げるためではなく、ただその踊る時間のために踊りたい。いちばん退屈から遠いところで。